長梅雨の雨が蕭蕭と降る中を、私は「印旛日本医大」という大きな時計台とドームを持った、現代的な駅に降り立ちました。現在の千葉県印旛郡印旛村、かつて下総国印旛郡吉高郷萩原と呼ばれた所です。このあたりは東京のベッドタウンとして開発された千葉ニュータウンの一角でありますが、分譲が思うように進んではいないらしく、駅前でも区画整理された空き地ばかりが目につきます。
ところが駅から北東の方向へ歩くことしばし、松虫という集落に入ると、それまでの殺風景な景色は一変し、まるで時代がタイムスリップしたかのように、昔ながらの深い山林に包まれた農村風景となります。このコントラストはたいへん印象的です。そしてそんな集落の中にある摩尼珠山医王院松虫寺には、八世紀の奈良時代にまでさかのぼる、こんな隠された伝説があると知っていれば、この里の雰囲気は神秘的にさえ思えてくるかもしれません。
『千葉県印旛群誌』(大正二年刊行)に採録されている当時の松虫寺住職、大野氏の談によると、「松虫皇女は、人皇四十五代聖武帝の第三皇女にして、御諱(いみな)は不破内親王と申し奉る。御年十四難病にかからせ給ひしに、奇なるかな天平十七(745)年二月七日夜、当本尊薬師如来の夢告によりて行基僧正、花井権大夫等の御供をして御下り給ふ」「此地に来りて願望丹精をこらし給ふに、病速(すみやか)に平癒す。よりて堂塔僧坊等の御建立あり」「寺号、村名皆皇女の御名をとって名づく」としています。
また安政五(1858)年に刊行された赤松宗旦『利根川図志』第四巻によれば、「松虫皇女御廟」の説明として「松虫村松虫寺にあり。寺門の二王端慶の作。本尊七佛薬師如来。行基僧正作。人皇四十五代聖武皇帝天平年中の御建立といふ。薬師堂の後の方に松虫皇女の墳(つか)あり。その側に社あり。俚人姫宮と称す。松虫姫は聖武天皇第三の皇女(或は宮女とも云伝ふ)癩を病みてここに棄てらる。自らかなしみ此薬師佛を祈りて癒ゆることを得玉ふ。後帝都に還幸して薨じ給ふ。而して後御骨を当山に安置すといひ伝ふ」ともあります。
以上がこの地に伝わる松虫姫伝説の概要で、他にもバリエーションやエピソードがありますが、繁雑になるので省略します。つまるところ奈良時代に一人の高貴な女性が難病からの回復を祈願して、都よりはるか離れた辺境であるこの地に下り、当寺の薬師如来の功徳によって無事快癒を遂げて帰京したということ。そしてこれら一連の出来事を、寺や地名の縁起とする伝説です。
現在の松虫寺は境内も広く、雨降る中に咲く紫陽花の花が鮮やかです。隣接して松虫姫を祀る松虫神社もありました。伝説の中に出てくる当寺の本尊、七体薬師如来像は平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。そして境内の奥まった一角には、「松虫皇女之御廟」と記された石碑とともに、石の柵で囲まれた松虫姫の墓がありました。これが彼女の遺骨を都から分骨したといわれる墳(つか)でしょう。よく見れば、中には貝化石の塊(古墳の石室に利用したもの)と板碑とが、墓標がわりに置かれていました。板碑は上部が欠けていて、下部も完全ではありませんが、比較的大型で鎌倉時代のものと考えられています。
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もちろん現在に伝えられたこれらの伝説が、そのまま事実の反映であるはずがありません。どうして辺境にこのような伝説が伝えられてきたのかという疑問もあります。しかしこれらの中には必ずいくらかの真実が含まれているものであり、このエッセイでは、奈良時代のこの地において伝説が伝える内容に近い出来事があったのではないかと仮定して、実際の正史との異同などを検証しながら、その真実の姿にせまってみることにしましょう。その過程で伝説の主人公、不破内親王の実像に触れてみたいと思います。