高知県須崎市野見地区は太平洋に面した野見湾の奥に位置し、その波穏やかな入り江を利用してカンパチなどの養殖が盛んです。ここに神護景雲三(769)年、母親・不破内親王による巫蠱厭魅事件に連坐して土佐に流されたという氷上志計志麻呂の供養塔があることは、以前何かで読んで知っており、一度訪ねてみたいものだと思っていたのですが、ある冬の日、ほとんど思いつきで自転車にまたがり、京都から大阪へ、大阪からフェリー、そして高知から須崎へと3泊4日の旅をしてきました。同じ経路をたどって自宅に帰り着いた時には、さすがに疲労困憊、tired out!となりました・・・(笑)。
かつての野見は、陸路をとると必ずどこかの峠を越えねば辿り着けない、隔絶された土地でもありました。須崎市内から野見に向かって走ってゆくと、そんな山道の途中に志計志麻呂供養塔への登り道を示す道標があります。ここを登った金毘羅山の頂にある親王宮という小さな祠の中に、五輪小塔二基と石の板碑一基が安置されていました。これらが氷上志計志麻呂の供養塔と伝わっているものであり、市文化財としての指定も受けています。
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親王宮
氷上志計志麻呂の配流地を現在の須崎市野見に比定したのは、江戸時代の文化十(1813)年に、土佐国に関する詳細な歴史・地誌書『南路志』を編纂した武藤致和(よしかず)・平道父子であったようです。『南路志』巻四にはかつて土佐に配流された多くの流人たちが列記されていますが、志計志麻呂についても『続日本紀』の記述を引用した上で、最後に「致和云、志計志麻呂配所ハ高岡郡野見大谷村の邊り也と里人云傳」と記されているからです(高知県立図書館編『土佐国史料集成 南路志第一巻』、高知県立図書館、1990、所収)。
しかしこの供養塔については、武藤致和が聞き取り調査した以前から志計志麻呂のものとされていたのか、それとも『南路志』の記述が人口に膾炙されることによって、「これが志計志麻呂の供養塔だろう」といわれるようになったのか、今となってはよくわかりません。
というのは、この板碑には天文二十四(1555)年の刻銘があるものの、そこに刻まれているのは観無量寿経の一節であり、残念ながら志計志麻呂との関係を示すものではないからです。ただ供養塔というからには、流されてきた志計志麻呂がこの地で亡くなったと考えられていたのかもしれません(注1)。
また私が泊まった民宿のおじさん、おばさんによると、野見地区で話される言葉は、他と違って柔らかいという興味深い話を聞かせてくれました。例えば少し前まで野見の女性たちは、自分のことを「コイ、コイ」と呼んでいたそうです。「これはやっぱり都から野見に人が流されてきたことの名残りかねえ」とのことです。
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親王宮から野見湾を望む
これらの信憑性についてはさておき、この野見の親王宮からは木の間隠れに風光明媚な野見湾を望み、確かに都から流人が配されてくるのに相応しい地であるように思われます。私も旅の疲れを忘れて、遠く奈良の時代にしばし思いをはせました。
(注1) 志計志麻呂はもう一人の兄弟、氷上川継と同一人物であるという説もあり、これに従えば、彼は宝亀十(779)年以前に許されて帰京していたことになります。